セミの鳴き声と蒸し暑さが重複し、最大限の汗をかいて目が覚めた。窓は開けっ放しでぬるい風が少しだけ肌を撫でる。
僕は床で寝ていた。二人で飲んでいた後、キンちゃんが僕のベッドを占領し、そのまま寝てしまったためだ。
まあ別に占領されなくても男の僕がベッドで一人で寝るわけにも行かないだろうから、結局どちらにせよ僕は床で寝ていたはずだ。床はフローリングなので少し体の節々が痛んでいた。
机の上を確認すると、昨日、詳しく言えば今日なのだが、あれだけ散らかっていた机の上が綺麗さっぱりと片付いたいた。僕が片付けていないのは確実なので、キンちゃんが僕の寝ている間に片付けてしまったのだろう。
キンちゃんに礼を言おうかと思い、ベッドの方を見るがベッドの上には誰もいない。布団はきちんと整理されており、酒の匂いに混じり、ほんのりと甘い匂いが漂っている。
帰ったのか?と内心喜びつつも部屋の中を探してみる。玄関を最初に探したら僕以外の靴が全てなくなっていたから帰ったのだろうと合点した。
綺麗になった部屋に感謝しながら僕は学校へ行く準備を始める。バッグを探すが見当たらない。そういえば昨日部室に置いてきたまんまだったな。
玄関の靴棚の上においてある自転車の鍵を取り、靴を履こうとする。
クシャっと音がした。靴の中に何かが入っている。
取り出すと電話の横に配置してあるメモ帳の一枚だった。
「テストがあるので先に家でます」
簡潔な一言。キンちゃんらしいと言えばらしいのであろう。それよりも靴の中にメモを入れる非常識さと、靴の中という必ず気づかざるを得ない知恵にキンちゃんらしさを感じた。
っつーかテストの前日に飲み会って。しかも多分午前中にテストだろう。
壁に掛けてある時計を確認すると午後一時前。僕も四時過ぎからテストがあるのであまり強くは言えないのだが。ちなみに授業中に黒板を写したノートなどが持ち込み可能なので僕は勉強をしていない。
キンちゃん二日酔いじゃないだろうな。と内心心配しつつ、玄関をでて、南京錠の鍵を閉めた。
大学からの帰り道。空はまだまだ明るい。日中と比べると暑さも大分マシになっている。
今日で僕のテストも終了。大して勉強はしていないのだが、試験終了後特有の開放感に包まれ、軽い足取りで家路に着く。
家に帰ってからの食事の事を考える。昨日花中島たちが買ってきた材料が大量に余っている。これで親から仕送りがあるまでの期間を何とか食いつなぐことが出来る。そのような事でも更に幸福感は増し、更に僕の心は浮かれはじめる。
アパートの前に自転車を止め、軽い足取りで自分の部屋へと移動をする。
僕の家の扉の前で誰かがうずくまっていた。
体育座りで顔を膝の間にうずめ、眠っているかのようにピクリとも動かない。座っている両脇には大きめのバッグが置いてあった。
近づいて確認しようとすると僕の足音に気づいたのか、僕の方を仰ぎ見た。
まあ体格と服装からなんとなく分かっていたが、僕の玄関の前で座り込んでいたのはキンちゃんだった。服装はジーンズに胸が強調されているぴったりとしたTシャツ。頭には帽子を被り、髪は帽子の中へとねじ込んでいる。昨日と違う服装ということは一度家に帰ったということか。まあそうだろう。昨日は文字通り、酒を浴びていたわけだから。そのままの服で学校へ行ったら、下手すれば学生課に何か言われる。
「ど、どうしたの?」
「・・・・・・・・・・」
無言。沈黙。黙秘。何でもいい。とにかくキンちゃんは何も言葉を発しようとはしない。
何か忘れ物でもしたのか?と勝手に想像しつつ、部屋の鍵を開けるためにキンちゃんをどかそうとジェスチャーする。
キンちゃんは立ち上がり、両脇においてあった荷物をドアの前から邪魔にならない位置に移動させた。
僕が部屋に入るとその後ろをひよこのように荷物を抱えながらついてくるキンちゃん。一応僕に聞こえるように「お邪魔します」と一言言った。別に声が出ないわけではないらしい。
昨日誓った「異性を部屋に入れない」という自身の約束を早速守れないでいる自分に辟易しつつも、まあ何か用があるのなら仕方ないか、と納得している僕がいる。
「何か忘れ物?」
「いいや。違うけど」
そう言うとキンちゃんは荷物ごと部屋の中に入っていった。
なんだか不機嫌らしい。
「夕飯一緒に食べる?」
「あ、お願い」
夕飯は食べていくらしい。まあ材料代は彼女らのポケットから出ているため僕は何も言えない。作る手間くらい僕がやるってものだ。
今日この部屋に来た理由を一切話さないキンちゃん。不機嫌っぽいから単刀直入に聞くのもはばかられる。
まあいいや、と思いつつお米を研ぎ始める僕。そして炊飯ジャーにお米をセットすると肉の下ごしらえに入る。
僕が台所でガチャガチャしているとキンちゃんのいる部屋からテレビの声が聞こえた。そして時折聞こえるキンちゃんの笑い声。なにやらくつろいでいるらしい。
肉の下ごしらえが終わり、後はご飯が炊き上がるのを待つだけなので僕も居間へと移動した。
キンちゃんはテーブルの前に座っていた。帽子はとっている。僕の顔をチラリと見た後、再度テレビに集中する。今日は彼女から僕に一言も声が出ていない。
僕は本棚から読みかけの本を取ってきてキンちゃんの左九十度の所に座り、本を読み始める。
一切会話のない空間。これはきつい。特に女の子とだとなおさらだ。これが花中島だったらなあ、と考えつつ字を目で追い続ける。
少し本を読み進めた後、なんとなくキンちゃんの方を見てみる。するとキンちゃんも僕を見ていたようで目が合った。キンちゃんは咄嗟に目を逸らす。
・・・・・・・・・んー。なんだろう。何か話しかけて欲しいのか?
再度本を読む。
神経をキンちゃんの方に集中すると、またキンちゃんは僕の方を見ているみたいだ。
「・・・・・・・・・・・何さ?」
僕は本に目を落としたままキンちゃんに質問する。
キンちゃんは髪をぐしゃぐしゃとかき乱し、あー、っと一声発した。
「えっとさあ、んまあ、言いづらいんだが」
そういうとキンちゃんはあぐらで座っていた足を正座に直した。
何か真面目な話そうなので僕も本に栞を挟んで、彼女のほうに向きを直す。
「なに?」
「・・・・・・・・・・・今日泊めてくれないかね?出来れば今日以降ずっとだが」
「えー?」
確かに言いづらいことだった。僕なら女性の部屋へ赴いて、「部屋に泊めてくれ」などと口が裂けても言えない。そんなことするくらいなら路上でごろ寝する。だって絶対嫌な顔されるだろうから。実際僕は嫌な顔をしている。
「えーっと・・・・・・・なんで?」
とりあえず理由も聞かずに断るということはしない。そう、僕は心が広いんだ。理由を聞いてから断る。
「理由は二つある」
ほう。二つもあるとな。
「一つ目は?」
「実はね、今日両親と喧嘩した。それで家を飛び出してきたわけだが」
「仲直りしてきなさい」
「それは出来ない」
僕の一言で切り捨てた言葉を更に一言で切り捨て返す。
「なんで?」
「一つ、私は間違っていない。二つ、両親が理不尽。三つ、ココまで重装備をしてきて一日目にして家に帰るのは私のプライドが許さない。というか家出して一日で家に帰るという行為は恥ずかしいものだろう」
大学生にもなって家出するほうが恥ずかしいんじゃないか?という言葉を言いたいのだが、僕はそれを飲み込んだ。わざわざ不機嫌にさせる必要はないと考える。
「そう。わかった。しかしだからって僕の家に泊まるという理由にはならない。他の女友達の家に泊まりなさい」
僕のアドバイスに首を振るキンちゃん。髪の毛がパサパサと揺れる。
「そこで二つ目の理由が出てくるのだよ」
「ふーん。二つ目って?」
僕が聞き返す。
一瞬の沈黙。
キンちゃんは僕を上目遣いで見る。
「君は怒るかもしれない」
「場合によってはね」
「君は真面目すぎるからな。頭がカッチカチだからな」
「・・・・・・・・・・・そこまで言うか?それなら言っておこう。絶対に怒ってやる」
「そ、そうか。日本には言わぬが花という言葉もあるしここはいわないで」
「二つ目って?」
「言わぬがは」
「二つ目って?」
「・・・・・・・・・・」
再度沈黙。このようなやり取りの時点で僕は少し怒っているのかもしれない。
キンちゃんは重たい口を開いた。
「だって、ココの家って学校から近いじゃないか」
「・・・・・・・え?それだけ?」
「あと昨日も泊めてくれたし今日も泊めてくれるかなー、と」
「ファッキン!」
僕は何も乗っていない机をひっくり返した。星一徹とか大好きだ!僕の場合はご飯が乗っている場合は勿論そんなことはやらない。
そんなくだらない理由で彼女ですらない人を家に泊めるわけにはいかない。昨日は特別だ。
キンちゃんはひっくり返ったテーブルを戻した後、僕に向かって叫ぶ。
「DVD!」
「Dが一個多い!」
そこはDVだろう。
「それならVD」
「抜かす所が違う!その前に僕は君と結婚などしていないしましてや付き合ってさえいない!」
「それならDB」
「それならの意味が分からない!ちなみにそれはドラゴンボールだ!」
「・・・・・・・・・よく分かったね」
そりゃあドラゴンボール世代ですから。
って違う。ここはそのコメントじゃない。
「出てけ」
「断固拒否する」
そういうとキンちゃんはテーブルにしがみつく。
「で・て・けー!」
僕はテーブルにしがみついてるキンちゃんを持ち上げようとお腹に手を回して引っ張り上げる。セクハラなど言ってられない。
ジタバタ暴れるキンちゃん。
「大声出すよ!しかも最悪なの!」
すでに大声を出しているキンちゃん。
「出していいから出て行け!」
僕の怒りの声は彼女の心に半分だけ届いた。
「た!す!け!てー!犯されるー!」
届いたのは最初の半分だけ。マジで洒落にならない大声を出すキンちゃん。
しかしながらそんなありきたりな言葉に僕が怖気づくはずがない。そもそも僕が部屋に女の子を招きいれてるのがありえないのだ。隣人達はよく分かっている。僕にそんな度胸がないと。僕の部屋にそもそも女の子が来るはずがないと。分かっているはずだ。分かっていてくれ!お願いだから!
引き続き、更に力を振り絞り、部屋から追い出そうとする僕。
「大声だすよ!しかも性質が悪いの!」
「すでに性質が悪いよ!いいから出て行ってくれ!」
再度キンちゃんは叫ぶ。「犯される」という叫び声以上に最悪な言葉があるわけがない。僕は更に力を入れてテーブルごと玄関に引きずっていく。
「しらないよ!いいの?ここに住めなくなるよ!」
「うるさい!でていけ!」
「言うよ?知らないよ?」
「言っていいから出て行け!」
僕がそう叫ぶのを確認すると彼女はテーブルを話して両手をメガホン代わりに口に持っていって叫んだ。
「たっすっけって!イブキに掘られる!」
「ほ、ほられ!本当に性質がわりい!」
声色を男に変えて叫ぶキンちゃん。
「イブキに掘られる!やめて!そこはウ○コを出すとこだ!チ○コを入れるところじゃない!」
「ごめんなさい!やめて!叫ばないで!僕が悪かった!」
僕は思わず手を放す。本当に止めて。洒落にすら出来ない。明日からの生活が、ご近所さんとの良好な関係が崩れ去ってしまう。
二人ともクタクタになり床に寝転ぶ。
ぜえぜえはあはあと二人して汗だくなままピクリとも動かない。
夏の暑さもあいまって、床に水溜りでもできるのではないかと思うような汗が床に滴り落ちる。
「そう言えば、そもそもだ」
キンちゃんは体を起こし、テーブルに肘をつきながら僕に話しかける。
「君は、昨日、確かに言ったはずだ」
言葉を途切れ途切れ紡ぎながら僕に言う。
「何をさ?」
「私がここに住む、と言ったら君は確かに、分かったと言ったはずだ」
「いや、それはさ」
僕は言葉に詰まる。確かに言った。分かったと。しかしあれは売り言葉に買い言葉というか、そもそもキンちゃんはあの時酔っていたし、そう言わないとあの場は収まらないはずだ。僕が嫌だ、と発言していたらそりゃあもう酔っ払いが暴れまくったに違いない。というかあれだけ酔っていたのにあの時のこと覚えているんだ。
「あれか、君は、嘘吐きか?」
少しキンちゃんの息が整ってくる。僕も同じように息を整える。しかし汗は溢れてくるばかり。
「しかしあの場はああでも言わないと、キンちゃん怒ってただろう」
「違うよ、今の論点はそこじゃない。君が自分の口から発した私の意見に対する肯定の言葉をいとも簡単に覆すのか、というところだ」
「だから僕は」
「ああ、分かった分かった言い訳はいい。出て行くからそこで一生私に対して釈明でもしていてくれ」
「ちょっと待てよ」
流石にそこまで言われて僕も黙ってはいれない。男の尊厳にかかわる。ここはきちんと説明し、僕が言った言葉がどれほど正しいかを説明しなければならない。
「そもそもだ、あれは酒の席でのことであって、互いに結構な量のお酒を飲んでいただろう?それならお酒を飲んでぐでんぐでんに酔っ払った人が、課長を殺す、と言っても誰も信じないし刑事事件まで発展することもほぼないだろう」
そう、そもそも僕に非はないと思われる。彼女の酒を飲んだ時の言葉、及び先ほどの行動を見てもほとんど恐喝に近いものと思われる。裁判に持っていっても僕は勝てるぞ。
そう言った僕の言葉にキンちゃんは呆れ顔で切り返す。
「わかったわかった。出て行くよ。女々しいな」
「め、女々しい!言いすぎだろう!それは」
「いや、悪い。忘れてくれ。私がわるかったね」
こ、これは。女性にここまで言われて引き下がれるか?いや、まて。ここで引き下がらなければキンちゃんの思い通りじゃないか?しかし、男としては、いや、待て、僕という人間として・・・・・・。
僕のプライドと理性が喧嘩を始める。その時点で僕はキンちゃんの手のひらで踊っているということに気づいていない。彼女の手の平でストリップショーをやっている感じだ。このとき既に彼女は内心ほくそ笑んでいたに違いない。
そして僕が心の中で格闘をし続けること五秒。
彼女の一言に僕のプライドは沸点を迎えた。
「器ちっちぇえ」
このとき僕は頭の中で何かが切れる音をはじめて聞いた。
「ぬおおぉぉぉぉぉ!だまらっしゃい!いいや!!もう泊まっていけ!一日でも二日でも一週間でも一ヶ月でも!」
この言葉は言ってはいけない一言だった。これこそ売り言葉に買い言葉。言い争う前に「今日だけ泊まってもいいよ」と妥協しておくべきだったのかもしれない。
彼女は最上級の笑顔を僕に向けた。
「それなら一先ず一年ね。ありがとう」
反比例し、開放感に満たされて幸せだったはずの僕の心は、どん底へと落ちていった。