理想的な生活




 キンちゃんの様子がおかしい。

 いや、確かにおかしいのは前からであったが、その状態から更におかしくなってる。

「イブキ君。今日の昼ごはんはしょうが焼きだ」

「え、ああ。あ、ありがとう」

 僕に料理を作ってくれている。別に僕が頼んだわけでもないのに。今までにないことだ。

 キンちゃんの変化はそれだけでなかった。

 掃除、洗濯、ゴミだし、部屋の片付け、その他諸々。家事を自主的にするようになった。

 おかしい。何か裏があるのか?

「いや、やるゲームもなくなったし、今までの恩返しとか。それよりも前に私が居候しているのだから家事を私がやるのは当然だろう。迷惑をかけているのだし」

 僕がそれとなく聞いてみたときの返答。おかしい。いや、言っていることは至極まともだ。常識があるというか、だけど正直そこまでされると僕の立場がないというか。

「ちょ、僕の下着は僕がやるから」

「何を言う。今まで私の分まで洗濯していたのに。君が恥ずかしがらずに私の下着まで洗濯していたのに私が君の下着の洗濯を嫌がるわけにはいかない。そもそも嫌じゃないし」

 少し前の僕たちの会話である。おかしい。いや、そもそも僕がキンちゃんの下着を洗濯していた時点でおかしいのだが。

 そして僕は家の中で家事をやることがなくなった。僕は今いつも通り絵を描いている。

 キンちゃんは僕の絵を時々覗き込むようにしながら、洗濯物を干したり、一日のご飯の献立を考えたり、そして作ったり。家事をしている。ゲームには一日一時間触るくらいになっている。今までのヒキコモリ生活を考えるとおかしい。こんなに簡単に生活が変わるわけがない。

「な、何か僕にお願いでもある?」

「ん?別に何もないが。何で?」

「いや、なんとなく」

 本当に裏がないように返事をされたから僕の正直な言葉は出てこなかった。

 えー?何だこれ?気持ち悪い。

 という気持ちが少々芽生える。これはしょうがない。いままでのキンちゃんがキンちゃんだったのだから。

 それとは別に、いまの生活を気に入っている自分がいる。普段の会話などにおかしい部分は残ってはいるが、基本的に理想的な生活を送るキンちゃん。そしてキンちゃんが来る前以上に充実している時間を送れる僕の生活。僕は正直言って家事は好きではないから、キンちゃんが家事をしてくれるようになって助かっている。一日の半分近く絵を描いたりできる生活を送れるようになった。自分の趣味のみに没頭できる生活こんなにもすばらしいものだとは思わなかった。料理などの人間が生きるために必要な煩わしい部分の大部分をしなくて済むようになる。ついこの間までキンちゃんがヒキコモリをしていたのが分かる気がする。

 キンちゃんがこのようにおかしく、もとい変わったのは海から帰ってきた次の日のことであった。

 僕は精神的、肉体的な疲労から、海から自宅に帰ってきた日はそのままぐっすりと寝てしまった。

 そして次の日起きる。前日には説教をするぞ、と意気込んでいたのだが人間とは不思議なもので寝て起きたら結構な怒りが消えていた。まあ少しは残っていたので、さて少し昨日のキンちゃんの行動について説教するか、と思ったのだが、キンちゃんが先に起きており、そして朝食を作っていてくれた。そんなことをされて怒るわけにもいかず、出鼻をくじかれる感じで朝には説教を出来なかった。

 昼こそは、と思い生活をしていると、キンちゃんが家事をキビキビとこなしていく。今まで一切してこなかったのに。そしてまた僕は説教をするタイミングを見失う。夜こそは、と思いタイミングを見計らっていたのだが、夕飯を楽しそうに準備しているキンちゃんを見るとそういうことは出来なかった。

 そしてそのまま今日に至る。あの海に行った日からちょうど一週間。正直に言うともう説教する気はない。そう、彼女は今常識人になりつつあるのだ。この一週間は破天荒な言動もなく、平凡な日常を送っている。今更昔の話を蒸し返す必要は無い。

 外は最後の命を振り絞り、蝉が自分の位置を必死に伝えている。クーラーは使わず窓を開け放ちそ残暑の暑さと、蝉の声を聞く。キンちゃんはあらかた家事を終えたのか、冷蔵庫から麦茶を取り出して二つのコップに注いでいる。そしてリラックスしながら本を読み、麦茶で喉を鳴らす。僕はその横で絵を描いている。

 しばらく遠ざかっていた平凡な日常。いいじゃないか。物凄くいい。

 昔とは違いキンちゃんが横にいるが、違和感なく溶け込んでいる。

 僕もちょうどひと段落をして、麦茶を飲み始めた時のことだった。キンちゃんの携帯がカラフルに光った。音は出ない。

 慣れた手つきで携帯を開き、キンちゃんはメールを読み始めた。

「イブキ君。武君がここでご飯を食べたいと言っているよ」

「ん?花中島からメールがきたのか?」

「いや、花ちゃんからのメールなのだが。今一緒にいるみたい。木島君もいるみたいだよ」

「お、木島もか。んー、お酒なしだったらいいよ」

「・・・・・・・・・・大学生が集まって飯を食うのに酒飲まないというのか!」

 んまあこういうところはいつもと変わらないわけだが、それでも前よりは格段によくなっている。

「いや、大学生が集まって、というよりはあの面子だけで酒を飲むと飲んだ後がヒドイことになるから嫌だ」

「いやいやいや、あれはだね。特別だよ?初めて君の家に来たわけだ。私と花ちゃんは。そしてみんなで始めて飲むお酒。そりゃあ皆テンションも上がるでしょう。しかしな、人間とは学習する生き物で、犯した失敗を学習して次に生かすということが出来るのだよ。いや、別に人間に限ることではない。生きとし生けるもの全てがそのように自分の失敗や欠点を学習し、姿かたちを変え進化し今を生きているわけじゃないか!それなのになんだ?君は一度嫌なことがあったからと、私たちが失敗したからと私達の要求を突っぱねるのかね?」

「ご、ごまかされないぞ!そこまで壮大な話を引っ張ってきても嫌なものは嫌だ」

 いつものように煙に巻く話し方で僕を説得しようとするキンちゃん。

「・・・・・・・・・・・・頼むよ、イブキ君」

 顔を伏せて軽く頭を下げ、今度は直球で頼み込んでくる。そこまでされると断るわけにもいかない。

「・・・・・・・・・・・・キンちゃんがお酒あんまり飲まないって約束するならいいけど」

 この間の飲み会で場を滅茶苦茶にしたのは、基本的にはキンちゃんと友永さんの二人だけだった。木島もなんだかんだ言ってお酒に強い。そうすればヒドイ状況にはならないだろう。

 分かった。とキンちゃんは快諾した。顔も笑顔だ。条件付ではあるが、僕も承諾した甲斐があるってものだ。

「それじゃあ、オッケーって送っとくよ。焼肉にでもしようか」

「うん。お願い」

 たまにはみんなでご飯を食べるってのもいいものだ。僕の心は今広く澄み渡っている。捨てられている子ワニを見つけてもいまの僕なら飼える自信がある。飼わないけど。

 キンちゃんはカチカチと携帯をいじり始める。

 最近は日々が充実している。たまには騒がしい日があってもいいだろう。

 僕の心は穏やかだった。

 穏やか過ぎた。

 この日の飲み会を僕は断るべきだったのだ。

 前回の飲み会で僕の部屋では飲み会をさせない、僕の部屋には異性を上げないという、自分への約束を守るべきだったのだ。

 これだけは言っておこう。自己弁護は一切なし。

 僕は次の日から最低な男になる。


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