スイミンヨクの後始末(上)


 梓ちゃんがトコトコと僕の後をついてくる。互いに無言。僕は年下の女の子に何と話しかけて言いか分からない。正直どう扱っていいかわからない。

「さて、困りました。どうしましょう」

 梓ちゃんはそう呟いた。内容は独り言なのだが明らかに僕に向かって話しかけている。

 これって泳ぎを手伝って欲しいってことだよな。木島に押し付けられる形だが頼まれていることもある。僕は暇だからいいけど。

「今日は泳ぎの練習に来たんだってね。僕が手伝おうか?」

 軽く誘ってみる。

「是非おねがいします」

 間髪いれずに返答をする梓ちゃん。あらかじめ僕の答えを予測していたかのように。

 もし僕が拒否していたらどうなっていたのだろう。

 まあ別にいいか。

「それじゃあ、練習しようか。どの泳ぎを泳げるようになりたいの?」

「クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ、横泳ぎ、立ち泳ぎ、犬かきにスカーリング。一先ずはこれを泳げるようにしたいですね。余裕があるようであれば立ち泳ぎの種類を細分化して踏み脚、あおり足、蛙足などの泳法もマスターしたいです」

「そんな余裕ねえ!」

 何だこの子は。こんなに欲張っているから泳げないんじゃないのか?

 僕が脊髄反射で突っ込むと、彼女は押し黙った。

 また沈黙が訪れる。互いに気まずい。

 悪いのは僕じゃないだろう。悪いのは僕の脊髄だ。

「ま、まあ一先ず平泳ぎが簡単だから練習しようか。出来るようになったらクロールとか学校で使われるような泳ぎ方を練習しようか」

「そうですね」

 表情を変えずにポツリと呟く。悪い子じゃなさそうなんだけど、やりづらい子だ。

 二人で一緒に海に入る。ゾクゾクするような冷たさを期待していたのだが、予想に反して海の温度はぬるかった。直射日光を浴びながら棒立ちしているよりは遥かにましなのだが。

 梓ちゃんは恐る恐る、といった感じでゆっくりと海に入り始める。

「梓ちゃんは水に顔をつけられる?」

 一先ずどの段階まで水に慣れているか確認してみる。泳げるようになるためにはまずどのくらいまで水に慣れているかを確認するのが大事だ。

「お風呂すら嫌いです」

 相変わらず間髪いれずに答える。

 珍しい女の子もいたものだ。汚ギャルってやつなのか?

「基本的にシャワーで済ませていますから」

 僕の表情を読み取ったのか、思考を読み取ったのかは分からないが、僕が考えていた事に対しての答えを言う。

 僕の質問に対する答えにはなっていないが、意味はよく分かった。「お風呂なら」ということは、海やプールでは潜れないということなのだろう。近頃の小学校や中学校ではこのような基本的な事を教えられないのだろうか。

「それじゃあ、水に潜る練習からしてみようか」

「はい」

「まずは目をつぶって、ゆっくりと水の中に顔を沈めていく。その時は出来るだけ何も考えないように。恐怖心が一番の敵だから。心臓を落ち着けるために自分の鼓動の音でも数えるのがいいよ。そして苦しくなったら顔を水から出すだけ」

 やり方を説明する。梓ちゃんはそれに頷いた。

「話し方が冷静で、そしてその行為自体の説明の仕方が簡単にできるように説明する。教え方上手ですね」

 褒められた。

 褒めた後すぐにゆっくりと顔が沈んでいく。

 一分。

 二分。

 三分。

 お盆時期のクラゲのように水に浮きっぱなしだ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・あれ、やばくね?

 僕は梓ちゃんの肩を叩いてみる。

 僕の不吉な予想に反して梓ちゃんはゆっくりと顔を上げた。

「どうかしましたか?」

「い、いや。大丈夫かなって思って」

「大丈夫みたいです」

 この子本当に泳げないのか?

 そのような考えを持ちながら僕は指導を続ける。

 十分後、梓ちゃんは平泳ぎを泳げるようになっていた。

「・・・・・・・・・・・本当に泳げなかったの?」

「はい」

 間髪いれずに答える。いやー、何この上達の早さ。このままいい指導者につけばマグロにも勝てるスピード出せるようになるんじゃね?

「何で泳げなかったの?おかしくない?練習し始めてから二十分も経ってないよ」

 疑問をぶつける。

「今までの指導者が悪かったのだと思います。中学生まで、体育の先生が教えていたのですが、キモかったので先生の指導を全て拒否していましたので」

 僕は沈黙する。それは指導者が悪いのではなくて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・いや、確かにある意味一部分では悪いところがあったのだろうが。

 僕は色々考えたが、全てを放棄した。今泳げるようになったのだからいいではないかと。

「木島も教えてあげればよかったのに」

 僕が独り言で呟くと、梓ちゃんはそれに言葉を返してくれた。

「毎年愚兄には教えてもらっていたのですけどね」

「へ?そうなの?」

 これだけ飲み込みの早い子だから既に泳げるようになってるはずなんだけど。というか泳げるようになっていない方がおかしい。

「あれこそ最悪の指導者でした。一言目には気合。二言目には魂の燃焼。具体的な泳ぎ方は一切教えてくれませんでした。両親はカナヅチなので私に教えることもできませんでした」

 本気で愚兄だ。しかしながら魂の燃焼という言葉はかっこいいと思ってしまった。

 その後は僕の教えられる限り、泳ぎ方を教えた。「余裕があれば」という言葉は別に自信過剰だというわけではなかったらしい。メキメキという何か割れるような音を実感できたのは初めてだった。

 平泳ぎ以外の基本的な泳ぎには時間がかかったが、一時間くらいで四種類の泳ぎ方を泳げるようになった。信じられない。

「・・・・・・・・・・・・・・・もう一回きくけど、本当に泳げなかったの?」

「はい。指導者が上手かったおかげでこれだけ早くできたんだと思います」

 褒められた。正直嬉しい。

 しかしこの子は何故独学で泳げるようにならなかったのか不思議に思っていたところでキンちゃんが僕たちの方へと歩いてきているのを確認した。

 木島は起きる気配が未だにない。


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