ヒキコモリの母とメイドと僕と



「はああああああぁぁぁぁぁぁぁ」

 母が引きこもり生活を始めて半年。春の日曜日。俺の溜息の増加数と比例するかのように家は物凄いことになっていた。

廊下を侮辱するかのようなゴミの山。寝ることを許さないリビング。人が殺せる台所。家はゴミでできていた。

ここで俺が潔癖症とかなら綺麗に家を保っているのだろうが、そういう便利なアビリティは無く、日に日に屋内の面積が狭まっていっているだけだった。

「母さん、家酷い有様だよ?どうする?」

 二階にある母さんがこもっている部屋の前で優しく言葉をかける。

 どうにか部屋から出そうと、家を放置しているという理由もある。出てくる理由を付けるためだ。

元々潔癖症な母親だったのだが、流行りものに弱く、「引きこもり流行ってるよね?」の一言で部屋から出てこなくなった。

意味が分からない。流行りものの種類が違う、と今更突っ込んでも後の祭り。引きこもり生活が馬にあったらしくそのまま生活を続けている。

俺が母さんに話しかけた後、『誰かに頼め』と書いた紙がドアの隙間からスルスルと出てきた。出てきて片付けるという選択肢はないらしい。

「もう!勝手にしろよ!」

 俺が大きい声で叫ぶと再度ドアの下から紙が出てきた。

『了解。ありがと』

 どうやら脳内で都合のいいように言葉のニュアンスが変換されているらしい。

 その言葉で全てを諦めた。このような押し問答を何回繰り返したのだろう。帰ってくる返事は全て「嫌だ」の類であった。

家の汚染度も限界だ。今日中に家中を掃除することを決意する。

自分の部屋は物凄く清潔に保っている。潔癖症ではないものの、自分の部屋が散れているとなんとなく勉強が手につかないタイプなのだ。勉強をする前になんとなく部屋の整理を始めてしまう。テスト前になると尚更だ。まあつまり、ただ単に現実逃避をしているだけなのだが。

 それに比べて母さんの部屋の周りは一階と同様、物凄い異臭を放っている。中はどうなっているのか想像もしたくない。いつの間に買ってきたのかは知らないがコンビニ弁当の山。もちろん中身はほとんど入っていない。バランスを考えてサラダも食べているらしいが、嫌いなトマトとピーマンだけを残している。もちろん、それは野良猫でさえ食べない物体になっているわけなのだが。

 改めて家の状況を確認する。

 三秒考える。

 五秒で止めた。

 一人でこれを一日で掃除するのは無理だと悟る。

 こういうときこそ便利屋御田村。頼れる親分肌。というか断れない性格の友人を呼び出すことに決めた。

 自宅の電話機がどこにあるのか見当も付かない状況になっているので部屋に戻って携帯電話で友人を呼び出す。

 二、三回の呼び出し音の後に御田村が出た。

「はい、もしもし。キムタクですけど」

「すいません。間違えました」

 俺の携帯にキムタクの電話番号が入っているなんて俺も知らなかった。と思いつつ電話を切る。

 んなわきゃーない。

 電話の発信履歴を確認する。もちろん名前は御田村。

 再度電話をかける。

「もしもし、ペ、ヨンジュンです」

「うわ!マジ?おば様倒れちゃう!」

「そもさん!」

「せっぱ!」

「いや、神崎そんなのいらんから。何用?」

 お前がボケ始めたのに、と言ってやりたかったが、今回は頼みごとをする立場なのでそれをスルーした。

「今暇か?」

「息するのに忙しい」

「後で息の根止めてあげるから。ってか暇だな?」

「そうですが何か?」

 電話口から何だか面倒くさいオーラが出ている。せっかくの日曜なんだからゆっくりさせてくれと、そう俺には感じ取れた。

 これは正方向で話し始めてもこいつは話に乗ってこないなと思い、少し考えた。

「今から俺んちに遊びに来ない?やばいくらい楽しい遊び考えた」

 んまあすぐにバレる嘘をついてみる。

 しかし御田村はそれに食いついてきた。

「え?気持ちいいこと?」

 どんな思考回路してんだろう。

 楽しい遊び→気持ちいい。男同士で遊ぶのにその考え方はないなと思った。

「もう、超気持ちいい。心洗われ、明日から(俺の)世界が変わるくらいに」

 一応乗ってみた。嘘はついていない。

「はいはい。どうせ嫌なことだろ?お前と何年付き合ってると思ってんだ?」

 まあ、こんなものだろうと思った。御田村とは幼稚園の桜組からの付き合いだ。互いの性格を知り尽くし、エロ本の隠し場所まで知り合っている中だ。その嗜好までも。

「あー、家の掃除手伝ってくれねえ?」

「おばさんは何してんだ?」

「まだ箱の中」

「長いな」

「勘弁して欲しい」

「そっか。良いぞ。手伝う」

 意外にも快諾してくれた。絶対面倒臭がると思ったのに。

 その後に「まあ昔はおばさんに世話になったからなあ」と続ける。まあ確かに御田村が俺の家に厄介になることは昔から多かったわけだが。

「それじゃ、ストアー田村に集合してくれ」

「了解」

 家に直接来てもらってもよかったのだが、いかんせん掃除道具が見つからない。下手すりゃどっかで腐っているという有様なので、バケツ、タワシ、洗剤諸々を購入しなければならなかった。

 早速ストアー田村へと向かおうと思い着替え、玄関へと向かう。

 玄関を開けるとたまたま通りかかった通行人が玄関から見えた状況を見て「うお!」と声を上げてビクついていた。今日中に片付けようという決意が更に固まった。

 

 時は飛んで自宅前。御田村と一緒に帰宅する。掃除に最低限必要な道具を買い、二人で自転車を漕いできた。二人して家を見上げる。

「外見は変わっていないんだけどなあ」

 御田村が俺の家に遊びに来たのは母さんが引きこもりになる前のことなので、中の状況を全くと言っていいほど知らない。

「中身を見たらちびるぜ」

 ちびるというか、公衆便所と間違えて玄関で用をたしかねん。と正直思っていた。

 改めて今日中に掃除を終わらせる決意を固める。もう決意はガチガチで人でも殴り殺せるんじゃないかと思うほどになっているはずだ。

 風が祝福するかのように吹いている。きっと祝福しているはずだ。そう思いたい。

「うお」

「どうした?」

 後ろにいた御田村が軽く叫んだ。俺は御田村の方を振り返る。

 御田村は手に一枚の紙を持っていた。それをまじまじと見つめている。

「何か顔に飛んできた」

 それを御田村が俺に渡す。その紙には一言、殴り書きで「メイド募集中」と書いてあった。どっかの喫茶店か何かに張ってあった紙だろうと、その紙をポケットに突っ込む。ポイ捨ては良くない。ついでにゴミに出してやろう。

「んまあ、入ってみようか」

「いらっしゃい」

 とサンポールやマジックリンの入ったスーパーの袋を片手に持ち、ゼロ戦で突っ込む気持ちで特攻する。

 鍵を開け、玄関の扉を開ける。ビビらせようと思い、先に御田村を家の中に入れた。

「・・・・・・・・・・・・・」

 無言で立ちすくむ御田村。当然だ。家の中の有様を見たら神様だって天誅を下すほどにびっくりするだろう。俺が神様だったら火事にしてる。掃除するのが面倒だから。

「な、すごいだろ?」

「まあ、・・・・・・・ある意味な」

 と御田村が答える。御田村に続いて俺も家の中に入った。

 正直、その時の衝撃といったら無かった。

 家が新築みたいに綺麗になっている。廊下を埋め尽くしていたゴミというゴミが全て、綺麗さっぱり、完膚なきまでに無くなっていた。

「んなあ!」

「おばさん復活したんじゃねえ?」

「ありえない」

 いや、ありえない。絶対にありえない。なんたって、全てが無くなっていたのだ。玄関の靴箱の上に置いてあった置物も、玄関に置いてあった靴も、玄関マットも、何もかも全てが無くなっていた。玄関から直接見えていたはずのタンスさえも無くなっている。

「何も無いじゃないか!全て!何もかも!俺の靴さえない!泥棒か!」

「夜逃げ?」

「馬鹿な!ほんの二時間前まではあの有様だったのに」

いや、朝までは全てあったからむしろ昼逃げ・・・・・・ってそうじゃない!

 玄関で靴を脱ぎ、急いで母親がこもっている二階の部屋へと直行する。

 ドアをコンコンと二回叩いて話しかける。

「母さん、これ、どういうこと?」

 少しの沈黙があったあとスルスルとドアの下から紙が一枚出てきた。

『メイド雇った』

 と一言、というか一文が書かれている。

「メ、メイド」

 メイドという一単語にちょっぴり体が反応してしまった俺。

 再度紙が出てくる。

『萌えてんじゃねえよ。クソガキが』

 不覚にもメイドと聞いて一瞬萌えていた自分の浅はかさを呪った。というか萌えるという行動を親に感づかれた恥ずかしさが凄かった。仕方ないじゃないか。今の日本でメイドと聞いて反応しない男子高校生を俺は知らない。

「おーい、神崎!どうだった?」

 一階から御田村の声が聞こえた。急いで玄関へと戻る。そして母親が書いた紙を見せる。

 メイドという文字に反応する御田村。ほら見ろ。健全な男子高校生なら下手すれば文字だけで下半身さえ反応しかねん。

「ま、マジか?」

「わからねえ」

 家に家政婦さんの類を呼べるほどの財力があるのかどうか俺は知らなかった。というかそんな人を呼ぶくらいだったら俺が自分で掃除する。今日だって、こうして御田村と一緒に掃除しようと、洗剤道具も買ってきたわけだし。

「ってかあの人のことじゃないか?」

 一人で悩んでいると御田村が居間へと続く廊下を指差した。そこには髪をポニーテールにしたメイド服姿の美人さんが立っていた。身長は百七十五センチの俺と変わらないくらいに高く、少しツリ目気味の目には眼鏡をかけている。手にはモップとバケツという最強装備。この組み合わせなら神をも殺せる。

「あ、今日からこちらに仕えることになりました、緒方岬というものです」

「あ、どうも神埼圭吾です」

「あ、どうも。岬と呼んでください」

 モップとバケツを持ちながら会釈する緒方さん。思わず返事を返してしまった。

 そうじゃない、そうじゃない、そうじゃない!

「えっと、緒方さん?」

「岬とお呼びください」

「それじゃあ岬さん」

「何ですか?」

「えっと母さんがメイド頼んだの?」

 素面でメイドさんなんて言葉を口にする日がくるとは思わなかった。

「そうですが何か?」

「いや、何かと言われても」

「一先ずお茶を入れますので御学友と共に居間へとどうぞ」

 そう言って、岬さんは奥へと引っ込んでいった。

「どうするよ」

「いくしかないんじゃね?」

 と二人でこそこそと話をしつつ、靴を脱いで奥の居間へと向かっていく。

 そこで更なる衝撃が走った。一瞬の空白を脳内に作るほどに。

 居間には何も無かった。 テレビも、机も、ソファーも、カーペットも何もかもが。

「マジですか!」

「どうかなされましたか?」

 岬さんがお茶を運びながら俺に喋りかける。そのお茶をどこに置くのかが見ものだ。

「何も無いじゃないですか!」

「奥方から、全て綺麗さっぱりしてくれ、との命令を承りましたので。全部売り払いました。ただ私は命令をこなしたまでです」

 その言葉を聞いて俺は再度急いで二階へと上がっていく。

 その俺の姿を見て岬さんが、

「あ、ちょっと」

 と俺を呼び止めたが一先ず母さんに確認することが先だと思い、その呼び止めを無視した。

ドアをノックして母さんにその命令を下したか聞く。

『肯定』

 肯定ってなんだよ!どっかの軍人か!と大きな声で突っ込んだがそれには無反応だった。

「なにしてんだよ!テレビもソファーも無くなって、・・・・・・どうすんだよ」

 家でも売り払うつもりか?と間を空けて聞こうとした時、部屋の奥から声が聞こえた。

「え?マジで?」

 思わず声が漏れるくらい母さんもびっくりらしい。それ自体にびっくりだ。

『部屋を片付けてくれくらいのニュアンスで言ったんだけど』『うわ、マジでか。どうすんべ?』『別に一階に降りる気がないしいいかな・・・・・』と次々に紙が出てくる。

ってかいい加減に喋れ!この野郎!

「どうかなされましたか?」

「ぬお!」

 いつの間にか岬さんが背後にいた。これでも寝ているときに少しでも物音がしたら目が覚めるくらいに敏感なつもりなのだが。

 岬さんに母さんが渡した紙を渡す。

「チッ」

 舌打ちした。え?何それ?

 自分が完璧にやりこなした仕事にケチがついたから舌打ちをしたのか、「ガキが余計なことしくさって」と思い舌打ちをしたのか、そこまでは分からなかったが、とにかく良い印象は受けなかった。

 とりあえず落ち着こうと思った。全てがなくなったのはほんの数時間の間の出来事。業者さんもまだリサイクル品として店頭に並べることは無いだろう。業者さんに連絡をいれ、また持ってきてもらえばいい。ただそれだけのことだ。うん。問題ない。

 岬さんに家具は元に戻すようお願いしてみる。

「岬さん、とにかく頼んだ業者さんに頼んで物を返してもらって」

「無理です。全て売り払いました」

「いや、だからそれを返してもらって」

「もう全てが遅すぎます」

「遅くないって」

「駄目です」

「駄目じゃないって」

「それなら嫌です」

「嫌って、えええええええ」

 何?この電波の人?無理じゃなくて駄目って言った。駄目じゃなくて嫌って言った。意味が分からない。

「どうすればいいですかね?」

「どうすればいいですかね?じゃなくて返してもらってください」

「それ以外で」

 こいつ何様のつもりだ。人様の家の物を勝手に売りさばいて、そして返品を却下する。

 ムカついて思わず怒ってしまった。そして口汚い言葉で罵る。

 後々に後悔する。この時はいた言葉を。別の言葉を選んでいたら、別の人生もあったのじゃないのかと。

「なんですか?それなら腹でも切って詫びてみますか?」

「わかりました。それなら得意です」

「は?」

「それでは拙者の生き様をとくと御覧あれ!」

「え?拙者?」

 メイドさんが拙者って言った。初めて見たカテゴリーだ。何?それで俺を萌やすつもり?それでキャラ立ててるつもり?

 そう思っている間に、岬さんは少し足を開いた状態で正座をして懐から短刀を取り出した。呆気に取られる俺。何をしようとしているのか?

「それでは」

 と一言言って、お腹の辺りの衣服を慣れた手つきで引きちぎった。真っ白な贅肉の付いていない綺麗な腹部が見える。

「せい!」

 と一言言って腹部に短剣を刺して横にスライドさせた。

 内臓がポロリと出てくる。

 飛び出る内臓。足元に溜まる血の海。綺麗だった廊下に綺麗な色が広がる。

「これで!これでお金は拙者のものおおおおおお!」

「ええええええええええええ!!!!」

 家中に響き渡る絶叫。俺もつられてスクリーム。

 時間が一秒過ぎるごとに血が床を侵食していく。

 お腹から垂れている太目の紐が目に入る。

 これはヤバイ。トラウマが確定する。絶対夢で見る。今後肉を食べるたびにこの光景を思い出すかもしれない。

 そんなことを考えている暇は無かった。ここで今、尊い命が失われようとしている。

 一先ず必要な物は何だ!落ち着け自分!

「誰か!誰か早く!」

 何を呼ぼうか考えたが、俺の頭の中で閃いたものがあった。

「早くモザイク持ってきて!こんなの直視できない!」

 じゃねえ!救急車だ!救急車!

「みーたーむーらああああああああ!」

 パニックに陥りながらもギリギリの線で助けを呼んだ。

 衣服を濡らした御田村が急いで二階へと駆け上がってきた。どうやら悲鳴でお茶を吹いたらしい。

 この状況をみて唖然とする御田村。床には血溜り。短刀を持ったメイドさんが内臓を露出させている。ある意味これ以上のヌードはないと思われる。生まれる前の姿だ。

「な、なんだこの状況は?モザイク無しか?」

「そんなの俺が聞きてえよ!早く救急車!救急車!」

「了解した」

 パニックに陥ってる俺を見て、冷静に返事をする御田村。

 ポケットから携帯電話を取り出して颯爽と電話をする御田村。

 さすが御田村だ。学校一のクールガイ。こんなに非日常的な光景を目の当たりにしてもやるべきことを見失わない。しかしさすがに焦っていたようで、どこかのボタンを押したのだろう。通話が丸聞こえになっている。

「もしもし!」

 威勢よく御田村が話しかける。

「もしもし。定食屋くしかつです」

 だみ声のおっさんの声が聞こえた。

「あ、すいません。実は今ここに重体者がいまして」

「ああ?ここは定食屋だぞ?てめえどこに電話してんだ?」

「どこ?どこにって!あなたこそ何ふざけてるんですか!それでも日頃人間の命を扱う職業の人ですか?」

「なんだ?おじさんおちょくってんのか?」

「そもそも電話にあんたみたいなおっさんが出るのがおかしい!」

 みいいいたあああむうううらああああ。

お前どこに電話してんだよ!っつーかどうやって定食屋と一一九番を間違えるのかが知りたい。

しかしその御田村の姿を見たおかげで、自分は冷静になれた。このような醜態を人前で晒すべきではないなと。

そのままコントを続けそうな御田村を無視し、一階に急いで下り電話を探すが、もちろん電話さえも売り払われていた。

 自分携帯もってんじゃん、と自分に突っ込みを入れて懐から携帯を取り出す。

 急いで一一九番を入力して通話ボタンを押す。

内心定食屋に繋がったらどうしよう、と少し不安になったのだが若いお姉さんの声がした。受付の方はさすがに慣れているらしく、こちらのパニックを上手くなだめてすぐさま俺の家を特定した。すぐに来るらしい。

二階に戻るといまだにコントを続けている御田村と、内臓を押しとどめている岬さんの姿があった。二人ともぐったりとしている。母さんは部屋から一切出てくる気配が無い。きっと部屋の前がどうなっているのかも知らないはずだ。

部屋のドアを開けたらそこは血の海でした。

ホラー以外の何物でもない。

 岬さんは息も絶え絶えで何かブツブツと呟いている。正直助かる気がしない。

 どうしようもない状況を傍観していると岬さんが手招きをし始めた。

 最後の言葉かと思い、口元に耳をもっていく。

 上手く聞き取れないくらい声が小さかった。

「・・・・・・・・・」

「なんだって?」

 俺が大きな声で言った。

「い・・・くを」

「何?」

「介錯を頼む」

「誰がするかああああ!」

 何だこのメイドは!武士か?武士なのか。そうか。それなら仕方ない。

 そう突っ込んだあと結局なんかどうでもよくなって俺もぐったりしてその場に救急車が来るまで座っていた。

「いやあ、かたじけないです」

「かたじけないって言葉で済まそうと思うなよ」

 釘を刺しといた。岬さんは顔を赤らめながらうつむいた。

 血の惨劇は収まった。救急隊員の迅速な行動。救急車が到着して一分もしないうちに岬さんは運ばれていった。プロの技だ。プロの。

俺はその時、将来救急隊員になることを強く心に誓った。

 結局俺も一緒に病院へと着いていき、岬さんの容態を見ていた。御田村は家に残り血の後片付けをしていた。今日買ってきたばかりの洗剤が予想もしなかったところで役に立ったみたいだ。マジックリンを作った人もこのようなことに使われるなどと予想しなかったことだろう。

 そして岬さんは何故か今、ピンピンしてお茶を俺に持ってきている。この人は不死身なのだろうか?

 病院でのお医者さんとの会話を聞いていたが意味が分からなかった。

「えっとさ、さっきまでお腹が綺麗に割れていたんだけど。今は傷跡すらないよね?どうして?」

「そういう仕様です」

「仕様って・・・・・・。君本当に人間?」

「メイドです」

「え?メイド?」

「人類最後の侍です」

「どっち?」

「メイドインSAMURAIです」

「もういいです」

 最後の方はお医者さんが頭を押さえながら諦めていた。なんともまあ電波な会話だった。

 そして結局怪我は一時間後には傷の跡すら残ることなく完治し、病院を追い出された。こんなに健康な人は病院にいるだけ無駄、ということらしい。本当は人間以外は扱っておりません、というところだろうけど。

 その後はすぐ家に帰宅。帰宅してきた岬さんに驚いている御田村を無視し、テレビなどを売ったお店を問いただした。最初は渋っていた岬さんだったのだが、僕が懇切丁寧に刑法と民法を紐解いて脅すと簡単に吐いてくれた。

 売ったお金は岬さんのポケットにきっちり収まっていたみたいで返却のときのいざこざは岬さんがごねる以外ほとんど無かった。

 その結末を見届けた後、ぐったりした御田村は帰っていった。その後姿は岬さん以上に怪我を負った重病人みたいで、別に俺が悪いことをしたわけではないのに、悪いことをしたなと思った。

 御田村が帰った後の岬さんは羊の皮を脱いだような人だった。

 つまり、人前では猫を被っていた。俺と二人きりになった途端先ほどまで凛としていた姿が一気に崩れ、だらっとし始めた。

「まあ、物が戻ってきたからいいですけど、何でお金が岬さんのポケットに入っていたんですか?」

「それは、仕様です」

「それはもういいです」

 つまらなさそうな顔をする岬さん。さっきまでの態度とは一変。まるで万引きしたことを逆ギレする高校生のような態度をしている。この人は自分の立場が把握できていないだけだと思う。そう願いたい。

「何なら国家権力に頼りますよ?出るとこ出ましょうか?」

 反省をするように促してみる。

 すると岬さんは真剣な目をこちらに向けて口を開いた。

「最近の人間はそう『訴えてやる』『出るとこ出ましょうか』的なことを言えばすぐ物事が解決すると思っているのではないのでしょうか?それってちょっとどうかなと拙者は思うのですよ。仁義という言葉があります。それは日本古来から培われてきたもので、元々は中国の・・・・・・」

 ベラベラと喋り始める岬さん。

「何?その屁理屈?」

「屁理屈などではない!」

「警察に電話しましょうか?」

「すんませんした!!」

 岬さんは突っ伏すように謝った。まるでプールで潜水でもしているかのようにその体を床に押し付ける。心意気は分かるが何だかふざけてやっているように見えるのは俺だけか?

「まあそれはいいとしてなんであんなことしたんですか?」

 一先ず罪は置いておくことにして、その理由を聞いてみようと思った。

「人間が生きることに理由など必要あるんでしょうか?」

 変な言い訳が入る前に軽く目を突く。

「目が痛い!」

 当然だ。他にどこが痛いというのだろうか。

 悶絶した後、岬さんは目を擦りながら口を開いた。腹を切っても死なない人間なのだからこれくらいじゃどうってことないだろう。

「・・・・・・・売った方ですか?腹かっさばいた方ですか?」

「どっちもで」

「それならまず何故売ってしまったかというところから」

「おう」

「ほんの・・・・・・・ほんの出来心だったんです!」

 そう言うと岬さんは汐らしく涙を流した。今さっきまでの態度とは打って変わって女の子らしさを全面に押し出している。どこから出したのかハンカチを口で噛締めて、己の無実を訴えている。

 その濡れた瞳は男という男を全て陥落させ、彼女の言い分を信じない訳にはいかないと思わせるほどの妖艶な光を放っていた。

それは仕方ない。そう、人間誰にだってほんの出来心、悪魔の囁きというものが付きまとっている。そこは人間。欲望に突き動かされて何であんなことをやってしまったのだろう、と悔いることもある。

「嘘つくな」

 しかし俺は一言で切り捨てた。誰がそんな戯言で許すものか。

「チッ」

 岬さんはまた態度を変えて足を崩した。

「本当の理由は?」

「旅費が底をついてしまったんですよ。残金百円。それが消費税が掛からないという魅惑の上手い棒のおかげで、九十円、八十円、七十円とどんどんお金が減っていく恐怖と言ったら」

「上手い棒ってあんた・・・・・・・そこはひとまず我慢しようよ」

 そこで岬さんはその恐怖を思い出したかのように顔を真っ青に染めていく。そして体は震えだす。

 どっかから派遣されてきたメイドじゃなかったのかよ。というか今時旅人って。

 どこから突っ込んでいこうか迷っている間に、岬さんは話を続ける。

「そしてとうとう残金も十円になり上手い棒を買おうかどうか迷っていたところに天の啓示が!」

「なにそれ?」

「いや、この家の二階から『メイド募集中』ってビラが撒かれていたんです」

 俺ははっと気づいてポケットから紙を取り出す。そこには「メイド募集中」の文字が書かれている。思わず手に力が入り、紙を真っ二つに破ってしまった。

 あのクソ母親か。どっかに電話して声を出すのが嫌で近所の迷惑を顧みず、そんなくだらないビラを撒いていたというのか。ご近所さんの今後の俺たちへの対応が気になる。

「そして、この家に入り、玄関に置いてあった「二階へどうぞ」という紙に促されるまま二階へと上がり、その後は坦々と奥方との手紙のやり取りでメイド採用が本決まりになりました」

 母さんの馬鹿げている行動にいらいらした。しかしこの人にそのことに関しては罪が無いというのを理解する。

「で、結局売った動機は?」

 話が逸れてきているな、と思い話を元に戻した。別に旅費が尽きてしまったからって、普通は勝手に物を売ったりしない。他人の家具を売ってしまうほどの動機があるはずだ。この家でのアルバイトも決まり、一先ずお金のめどは立ったはず。

「あのですね、掃除をし終わった後、家具を見ていたんですよ。そして奥方の『綺麗にさっぱり』という言葉を思い出してふっと思ったんです」

「なんて?」

「あ、これは売れるな、と」

 目を輝かせながら答える岬さん。脈絡が無い。っていうか思考がお金へと直結している。これはかなり重症な病気だと思った。病気だとそう思うことにした。

 俺はため息をついた。こういう人は何を言っても無駄だということは短い人生の経験で分かっている。恐らく罪の意識などほとんど無いのだろう。話をするだけでも時間の無駄で、息をするだけでも酸素の無駄だということは当然のことだった。

「それで、切腹は?」

「人間が腹を切るのに理由など必要なんでしょうか?」

 間髪いれずに再度目潰しをしてやった。

「目が痛い!」

 目を押さえながら物凄く痛そうにうずくまる岬さん。傍目から見たら物凄くかわいそうであったが反省はしていない。

 その後数十秒の沈黙が流れ、岬さんは言おうかどうか迷っている素振りを見せたが姿勢を正し、結局口を開いた。その目は今日会話を交わしていた岬さんの中で一番真面目な目をしていた。思わず俺が気後れをしてしまうほどに。

「責任を取って切腹することは、日本の侍なら当然のことだと拙者は思います」

「なんだよ、その言い訳は」

 その目は俺をまっすぐに見つめている。この言葉だけは本当のことだ、と訴えている。

 思わず心を打たれた。

 今までのふざけた態度とは一変している。目が「これだけは信じろ」そう言っている気がする。

 岬さんでも少しは真剣な部分があるのだと見直した。と同時に、簡単に人を軽蔑する自分の性格が嫌に思えた。

「拙者、クビですかね?」

 俺は黙り込んだ。

 病院の待合室で家に帰ってきてから岬さんをどうしようか悩んでいたことを思い出す。

 悩んだというより、どうやって辞めさせようか考えていたわけだが。

 少し考え込む。母さんが勝手に雇ったとは言え、一度雇った側には責任がある。彼女の目に余る行動。しかし、ほんの少しの間岬さんの仕事っぷりを見ただけで、彼女のいい側面も見ずに解雇というのもやってはいけないような気がした。

 今見たとおり、彼女にも真剣な部分があり、きっといい部分もある。もしかしたら今までのふざけた行為を帳消しにするような部分もあるかもしれない。

 更にしばし考える。

 ・・・・・・・・やっぱりもう少し働いてもらおう。

 そう思った。何よりこのまま彼女に名誉挽回のチャンスも与えないまま彼女をクビにしてしまうのも厳しすぎると思ったからだ。

 下を向いていた視線を上げ、岬さんに話しかける。

「岬さん!」

「ぷはー!仕事上がりは格別!」

 といいながら岬さんはビールを飲んでいた。汚名挽回してる。人様の家の物を勝手に冷蔵庫からだして。

 こりゃあ駄目人間だ。

 さっき考えていた思考が一気に吹き飛んだ。

 そしてその姿を見て決意を固める。というかその姿を見る前から決意は固まっていた。そういうことにする。さっきの思考が恥ずかしく思える。

 お酒に弱いのだろうか、一口飲んでほろ酔い気分になっている岬さんの手を握る。

「どうした?エロスか?青少年」

 頬は軽くピンク色に染まって口調もさっきのデスマス口調とは打って変わってタメ口になっている。

 俺はその言葉を無視してそのまま岬さんを玄関へと連れ出そうとした。

「野外プレイ?おいおい。段階ってものがあるだろう」

「今日でクビです。今すぐ出て行ってください」

 容赦なくクビを宣告してやった。岬さんの目が見開かれる。

「そんな!やっと屋根のあるところで寝泊りできると思ったのに!」

 暮らすつもりだったのかと思ったが声に出すのを止めた。これ以上会話を続ける気にもならない。

 無理やり外へと連れ出そうとするが、岬さんは抵抗する。暴れる。そして叫ぶ。

「いいいいいいいやあああああああだああああああああ!」

 俺の鼓膜が砕かれかねない音量で叫ぶ叫ぶ。

「誰か助けてええ!犯されるうううう!」

「うるさい!」

「切腹してやるううう!この家の前で切腹してやるううう!」

 それはもう勘弁願いたいと思いつつもその声さえ無視した。

ご近所さんに明日以降指差されるだろうな、と内心鬱になりながら廊下を引っ張っていく。

 その時二階の部屋から人が出てくる音が聞こえた。ドタバタと走って階段を下りてくる音が聞こえ、目の前に母さんが現れる。ビデオカメラを目の前に構えて。

 一瞬沈黙が訪れる。

 何やってんだこの人?

 俺と岬さんがフレームに納まるようにして、顔を赤らめながら、無言でこちらを撮っている。

 母さんから喋りだすことはなさそうだったので俺のほうから一言喋った。

「なに?母さん?」

「いいから母さんを空気だと思って。いいから続けて」

 そういいながら空いた手を全面に押し出す。何が「いいから」なのか分からない。

「何してんの?」

「いや、個人的に楽しむだけだって」

「何を楽しむの?」

 と俺が突っ込んだ矢先、岬さんは俺の手から逃げて母さんの後ろへと隠れた。「ほら、奥方。息子さんに言ってやって!」とビールを飲みながら母さんを炊きつけている。

「何?」

 と母さんが一言だけ俺に投げかける。ビデオカメラは岬さんが俺の手から離れた途端興味を失ったみたいで下ろしていた。

「母さん。この人駄目だ。クビ」

「それはあんたが決めることじゃない。お金を出す私が決めること」

 そう言うと母さんはニヤーといやらしい顔をして笑った。

「あんた、彼女といるのが嫌なわけ?」

「それはもう、殺意が芽生えるくらいに」

「んなら、メイドちゃん。あんたの気が済むまでこの家でバイトしていいわよ」

 その言葉を聞いた途端、狂喜乱舞する岬さん。居間に戻り祝杯を挙げるために母さんの分のビールまで持ってきて母さんに渡す。

 俺の嫌がる顔を見たいだけなのかニヤニヤしながら俺のほうを見ている。

「なんで?いい事ないよ?」

「そんなことはない」

 そこまで言って、母さんの顔は更に歪んだ。

「あんたの嫌がる顔が見れる」

「最低だ」

 そうそう言うと母さんは更に言葉を重ねる。

「それとね、彼女T大学卒業なんだって。あんたの勉強のほうも見てもらうつもりよ」

 幻聴が聞こえた。

「え?どこ大学?」

「T大」

「エヘヘ。すごいでしょ?」

「馬鹿な!」

 馬鹿な!そんな、こんな人前で切腹するような女がT大?馬鹿げている。あの日本最難関大学!確かにあそこは変人が多いと聞くがここまであれな人がいるとは思わない。

 俺の叫びを無視して母さんは話を続けた。

「それとね、設定的にはメイドの近所の綺麗なお姉さんと同居することになったという設定にするからね。勉強も教えてもらうし、できたらシモの方も教えてもらいなさい!」

「了解しました!奥方!」

 そう言い二人で握手をしながら頬を赤く染める。

 設定ってなんだよ。

「それじゃあ、メイドちゃんの屋内生活を祈って」

 そういいながらビールを掲げる母さん。もう俺がいないかのように振舞っている。

「カンパーイ!」

 そのビールにビールで突きを入れる岬さん。きっとビールしか目に入っていない。

 俺は頭を抱え込んだ。

 宴会モードに突入した二人を尻目に、俺は廊下で考え込んでいた。缶と缶のぶつかりあう音が何回も響く。

 そう、考えればそれほど悪いことじゃないのかもしれない。確かに部屋は綺麗に片付いているし、結果としてだが母さんも部屋から出てきた。勉強もできるというし、教えてくれるとも言っている。そう悲観することだけじゃあないのかもしれない。

 そう思いながら岬さんの方を見た。

 母さんにばれないようにテーブルに置いてあるお菓子をこっそりとポケットに入れている。

 やっぱり駄目だこの人。マイナス面が大きすぎる。何より、人間かどうかも怪しい。

「それじゃあ、新しい生活を祝して、切腹いたします!」

「お、ちょいっと待って」

 ビデオカメラを回す母さん。

「せい」

 そう一言言うと、机の上に鮮血が散った。

 せめて腹を切ることだけは止めて欲しい。そう願った。